隨念寺
なぜ佛現蓮臺は作られたのか
愛知県岡崎市は昔から、石の産地として知られ多いときは300を超える石屋さんが、技を競った町でした。特に灯篭、戦後は墓石で栄えました。特に灯篭石屋さんは、精密な彫刻を施しとても技術がある職人が数多く存在し、日本全国に灯篭を出荷してきました。事業に成功した人々は、自宅に庭を作り、粋(いき)な灯篭や水鉢、手洗いなどの庭物を置いて風流を楽しみました。戦後(第二次世界大戦)の日本は目覚ましい復興を遂げ今まで墓など持てなかった庶民が、こぞって墓を作り、ご先祖様を供養しました。ところが今はどうでしょか、灯篭を置けるような家はないと思います。庭を作るなら駐車場でしょう。えっ”お墓”、誰が面倒見るのという時代です。特に小泉内閣の時にグローバル化なんという旗じるしに乗り、3K業界(きつい、汚い、危険な職種)は中国に全部逃げだしました。時代の流れでしょう私も何度も中国へ行きました。ですから岡崎の石屋業界も縮小の一途です。お寺も同じです。今お寺でお葬式する人はとても少ないと思います。私が子供のころ(もう半世紀も前)ですが、ご近所の方が亡くなると、皆で協力しお寺でお葬式をしたものです。今は全く違います。
20年前、隨念寺”方丈”(ほうじょう、禅寺における長老の居室、客間、また住職の敬称)から、もうお墓を作る時代ではない、30㎝角のマスに納骨し全体で供養する納骨堂を作りたいといわれました。隨念寺は、私の実家の菩提寺というかか檀家であります。祖父、祖母、父の墓もここにあります。私の母は昭和2年生まれで今年96才になりますが、先の戦争で岡崎も空襲を受け命からがら生き伸びた人です。弟を戦争で亡くし、私は昭和34年生まれなので叔父さんのことは知りませんが、長男を亡くした祖母の悲しみは今でもよく覚えています。戦後の隨念寺は、家を亡くした浮浪者であふれていたと母から聞きます。方丈さんもそう言っておられました。うちの父同様に方丈も婿養子に入り、戦後の厳しい時代をお寺復興に尽力された方です。とても厳格で厳しい人です。もう20年以上前に今の現状を見抜いていたのはすごいと思います。
佛現蓮臺着工までの過程
1993年隨念寺、方丈さんから、納骨堂を作りたいので、相談に乗ってくれないかというお話をいただき、なんで僕なのと思いました。隨念寺は岡崎でも由緒あるお寺で檀家さんに4件ほど石屋さんがいて、そちらに頼めばいいのにと最初思いました。私は、美術の先生になろうと愛知教育大学、大学院に行ったのですが、大学2年の時、大理石の集中講義を受け、石にはまりそれ以降40年以上にわたり石の仕事に携わってきました。(同級生は校長、教頭をしている人も多くいます)卒業後、岡崎の石屋に就職しました。就職先の石屋さんが建築石材(床や壁に石を貼る)もしていたので、建築図面はよく見ていました。檀家の石屋さんはみな墓石中心の石屋さんだったので、図面を読み込むことができなかったので、檀家の一人として私に話が来たのでしょう。方丈さんから、お話をいただき、図面を見せていただくと、これはすごいスケールの建築物だ、岡崎の石屋では無理だろうと正直思いました。図面は京都の寺社、仏閣を専門にする設計士さんが図面を引き、同じく檀家の建設会社が基礎等、現場管理を担当することになりました。ただ建設会社でもこれだけ大規模な石の建築物は難しいので石材と、納骨スペースの中心になる仏塔と、阿弥陀如来像は私のほうで担当することになりました。図面から石の部材加工書を作り、さあどこに発注するか。岡崎の石屋さんでこれだけの規模の石材を扱えるところはなく、はじめ図面と、部材加工書をもって、韓国の大きな石屋さん見積をお願いしました。日本にも関ケ原、大垣などに大きな建築石材を扱う石材屋さんもあったのですが、とても方丈さんが考える予算に合わず、韓国に行きそれでも、予算に合わない、最終的に中国でということになりました。本来、隨念寺を継ぐべき人(方丈さんの義兄)が大阪で中国相手に貿易会社をしており、そこを通じて中国と取引することになりました。ただその貿易会社も、衣類とか布団を扱う会社なので、石のことは全く分かりません。ただその会社には台湾人の女性通訳の方がいて、北京語も堪能なので(仮にOさんとします)Oさんが窓口となり、中国との交渉をしてもらうことになりました。Oさんも石は扱ったことがないので、技術的なことは、私が指示し中国側へ伝達してもらいました。Oさんも専門分野ではないのでとても苦労されたと思います。でも若いのにとても優秀な方でしたので、ずいぶん助けていただきました。
1994年当時、中国は今とはずいぶん違いました。当時、関空(関西国際空港)から中国のアモイ空港、(福建省、台湾の正面あたり)まで飛行機で飛んで(名古屋からは直接便がない時代)福建省泉州(せんしゅう)まで中国の石屋さんの車で3時間かけて恵安石彫公司まで舗装のない悪路を走りました。中国人は気性が荒いのでクラクションと怒号の中、大丈夫かなと身の危険を感じながらの車中でした。(この時中国人の運転手さんの月額の給料が日本円で8,000円と言ってました。今とは格段の違いだと思います)以後月に2回くらい半年間中国に通いました。大体3泊4日で、中2日が検品(図面通りできているかのチェック)はじめは方丈、貿易会社の社長、通訳のOさんと私の4人で検品に行ってましたが、5回目くらいからは、Oさんと私、うちの会社のスタッフ3人で行くことが多かったです。莫大な石の量なので一人では無理です。ただこの半年で、アモイ空港から泉州の石屋さんまでの道は全部アスファルト舗装され、高速道路はできるは、高架の鉄道はどんどん伸びるは、上海は東京より高層ビルがにょきにょきできるといった具合で、北京オリンピックに向けて、急速に中国が経済成長するさまを実感しました。
日本での組み立て
いよいよ、中国から石製品が入ってきました。20トンのコンテナで、名古屋港から運ばれてきます。最終的には20トンコンテナで20車くらいだったと記憶してます。約400トンの石材をできたものから送ってもらいました。当時、私は株式会社PRIMO(プリモ)の役員をしておりましたので、3人のスタッフとともに、木枠に入った製品を管理しました。検品はしたものの膨大な量の石製品なので運搬途中でかけたり、割れたりの製品もありました。それに彫刻もたくさんありましたので、手直しはうちの工場での最終調整が必要でした。特に仏塔は細かいピースの組み合わせなので現場で合わないとなると大変なです。それに、地震で壊れないように全ピースステンレスの心棒と接着剤でつないでいきますので、工場での組み立てが不可欠になります。阿弥陀如来像の手直しもずいぶんしました。本社は建築石材も手掛けていましたので、そこに出入りする、フリーの石屋さんに声をかけ、手伝ってもらいました。皆さんそれぞれひいきの石屋さんがあるので、うちだけにずっと来てもらうのは無理です。代わる代わる来れる職人さんに来てもらい現場の支持は、私と杉林建設の若い監督さんで管理しました。大量の石材量なので、職人さんの手が滞ることがないように、管理するのはとても大変でした。組み立てに半年くらいかかりましたが、杉林建設さんの助けも得て(基礎工事躯体工事は杉林建設さんにすべてお願いしました。)の完成でした。
佛現連臺 礼拝堂と納骨堂
四天王
仏教の守護神で東南西北の四方を守る天部の神。須弥山(しゅみせん)の中腹に住み、それぞれ一つずつの転嫁を守るとされる。ともに帝釈天(たいしゃくてん)の武将で、東を持国天、南を増長天、西を広目天、北を多聞天。日本では、彫刻に傑作が多く、法隆寺金堂(飛鳥期)、唐招提寺金堂(天平期)、東大寺戒壇院の四天王像も素晴らしいと思います。
飛天
飛天とは、仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天女です。楽器を持ち諸仏を慰めているかのようです。(飛天の作画は近藤伸子が担当しました)
お釈迦様の一代記
佛現連臺、礼拝堂の中央部の壁面にお釈迦様の一代記をレリーフで彫りました。そして蓮台側面には、お釈迦さま、前世の修行、誕生、托胎霊夢、降魔成道、初転法輪、涅槃の説明文が彫ってあります。この文章は妻の知り合いの駒沢大学の有名な先生に書いていただきました。仏様のことならいいですよ。と無償で生き受けていただきました。駒沢大学は仏教系の大学です。とても分かりやすく、いい文章だと私は思いますので、下に書かせていただきます。そして正面には蓮華も模様とともに、お釈迦さまの重要な場面を抽象的に彫ってあります。今でこそ日本の国宝の中心は仏像が多いですが、当時は仏教も偶像崇拝の習慣はなく、お釈迦さまも人の形では表現しませんでした。(イスラム教は今日でも偶像崇拝はしていません)それに従って抽象的な表現にとどめたと。妻、近藤伸子は応えています。
お釈迦様さま
お釈迦さまは、仏教の教えを初めて説かれた方です。インドの釈迦(シャカ)族出身の尊い方ですので、釈迦牟尼とか釈尊と呼ばれています。悟りを開かれてブッダ(仏陀)になられましたので、釈迦牟尼仏陀とお呼びすることもあります。
お釈迦さまは人生に悩む多くの人々をすくい、その教えは今日も人々の胸に明るい光をともしてくださっています。
前世の修行
お釈迦さまの悟りは深く、広く、その慈悲の光は人間ばかりか、動物達にも及んでいます。それは、お釈迦さまはお生まれになる以前、さまざまな人間や動物になって正しい行いをされ,功徳を積まれたからだと、伝えられています。そして、今から二五〇〇年前、お釈迦さまは、兜率天(とそつてん、仏教の世界観における六欲天の第4の天である。)に住まれて、だれを両親とし、何処の土地に生まれようかとかんがえられました。
托胎霊夢(たくたいれいむ)
「托胎霊夢」とは、キリスト教でいう「受胎告知」と同じような意味です。
お釈迦さまは釈迦族のスッドーダナ王とマーヤー妃を両親とし、シャカ族の国に生まれることをお決めになりました。ある晩、マーヤー妃は六本の牙を持っ純白の象が右脇からお腹の中に入った夢を見ましたが、この白象こそ、お釈迦さまだったのです。
その年は、乾季にも水は豊かに流れ、美しい蓮華が咲き、お米も豊作だったと伝えられています。
初転法輪(しょてんほうりん)
お釈迦さまはベナレスの鹿野苑(ろくやおん)ではじめて法を説かれました。法を限りなくまわっていく輪にたとえて、初転法輪といいます。法を説いたのは、昔一緒に修行をしていた仲間でした。彼らは苦行をやめたお釈迦さまを見て、堕落したと思っていたのです。しかし、自分たちのところにやってくるお釈迦さまをみて、「なんと自信に満ちた尊いお姿なのだろう」と思わず礼拝し、迎え入れました。
五人はお釈迦さまの法を聞いて、「自分たちがどんなに苦行しても到達できない真理の道だ」と喜びの声をあげ弟子になりました。
ここに仏(ブッダ)・法(教え)・僧(修行者)からなる仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝が形づくられ、仏教教団が成立したのです。
涅槃(ねはん)
お釈迦さまはすべての人に分け隔てなく、知恵と慈悲にもとづく教えを説かれました。分かりやすく、深い内容のある教えを、その人にもっともふさわしい方法で説かれたのです。苦しみ、悩みから解放された人々の数は限りがありません。
四十五年もの間、お釈迦さまはインド各地で法を説かれ、やがて、八十才になられました。老いを知り、死の近づいたことを自覚されて、お釈迦さまはクシナガラの二本のサーラ(沙羅)樹の間にゆっくりと身を横たえられました。そして、私がいなくなっても、真理を拠り所とし、自分を拠り所として生きていくように、弟子たちをさとされました。「すべては変わりゆくものである。だから、どんなことにであっても、努力して、今を懸命に生き、静かな心を失わないように」というのが、最後のお言葉でした。弟子や信者、動物、鳥などの嘆きの中に、お釈迦さまは亡くなられました。平和な教えを説いたお釈迦さまにふさわしい静寂な涅槃を迎えられたのです。
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